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日馬富士 貴ノ岩に暴行疑惑 ビール瓶で殴打、右中頭蓋底骨折 11/14(火)スポニチ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171114-00000079-spnannex-spo

この事件、本当の所どうだったのかまだわからない状況で、現在任意聴取が続いている。ただ、事件のきっかけが、後輩の先輩に対する振る舞いであったと報道されている。

どんな世界でもある程度の"ルール"や"モラル"が存在する。あくまでも"ある程度"である。
しかし、スポーツに限らず、それぞれのカテゴリーの考えがそのまま、"常識・非常識"につながっているのが現実だろう。

私はサラリーマン時代、大企業の関連会社や中小企業で働いた経験があり、現在はフリーランスである。サラリーマン時代は、勤めた企業それぞれで考えがあり、それが常識・非常識の判断となっていた。ただ、こういう状況がわかったのは、現在も業務の一つであり、サラリーマン時代から並行して活動していたバスケットボールの取材活動をするようになってからだった。それまでは、その会社で起こっている正しい判断が"常識"で括られていると自分自身では思っていた。

社会人になってからすぐのころ、私はノイローゼになりかけた。新入社員で入ったある企業で(ゼネコンの建築現場)、当時の先輩からこっぴどく叱られた。叱られ方も普通ではなく、今でいうパワハラ発言だった。よく「あほ・バカ・死ね」と言われた。この企業において、こういう指導は日常茶飯事のようで、"常識"だった。勤めていた社員も、これが日本の常識だと認識していた。

それは、会社を変えてもそうだった。ゆく先々で同じ事柄でも違う答えが返ってくる。しかし、それぞれの職場内では"常識"であり、日本の"常識"みたいな扱いになっていた。

仕事の分担でもそう。嫌な仕事においては逃げる傾向があり、実際に嫌な仕事を受け持った社員にクレームは集まる。そして、その社員は"できない社員"として、社内では"常識"となる。

敷地が広い会社であれば、もっと深刻かもしれない。広いところでは、2つの駅間に敷地がまたがっているので、その中がまるで"村"みたいになってしまい、村の"常識"は、日本の"常識"になっていく。

"常識・非常識"という言葉を使うのならば、本来一つの物差しがあり、ある境目で分別をするのならばまだよいが、場所・地域・職場によって、物差しが変わるのであれば、それは"常識"でも"非常識"でもない。ただの自己満足にすぎないだろう。

人は何かをまとめる際、根拠づけのために"常識"という言葉を使う。しかし、それは万国共通なものではない。その場所におけるただのわがままだろう。だから、私は"常識・非常識"という言葉は意味をなさないし、その言葉もないものだと思う。

今回は「先輩に対する態度がなっていない」ということだった。実際のところ、細かい部分もあるのだろうけど、「態度がなっていない」となると、態度が適切である基準はどこにあるのだろうか?これは受けた本人しかわからないことである。つまり、受けた本人がどういう感情を持つかで、態度が正しいか正しくないに分かれてくる。

十人十色といわれるぐらい、人間は10人いれば10通りの考えがあるといわれている。先輩・後輩のマナー・礼儀はもちろん考えないといけないが、考え方は尊重しないといけないと私は思う。そして、常識という言葉で、相手に納得させるのもいかがなものかと思う。常識という言葉を使うと、具体的なことを言わなくて済みそうなので、落としどころに使いやすい。しかし、常識が正しいとは限らない。常識・非常識という言葉を使うなら、きちんと事象がなぜ正しいのかを説明する義務がある。あるべき姿として、これらを考えるともっとコミュニケーションは円滑に行われやすいと思うが、いかがだろうか?

常識・非常識という言葉を使う前に、きちんと順序良く事象は正しいことを説明する責任があると私は思う。ぜひ考えてみてください。